ルールが「鍛える」文化を作った
ルールがあると言う事は、
攻略法があると言う事である。
特性が明確にあり、それが保持されていると言う事である。
故にそのルール内で勝つための「見切り」が必要になる。
ルールが守ってくれる部分を自分で守る必要は無い。
また、ルールが認めた利益の教授を得る事のみに専念すればいいと、質の低い人間は思うものである。
何故ならルールが機能していればそれが社会の中で絶対的なものとして力をもっているので、そこに自分の立場をいかに仮託するかが生き残りのカギとなるからだ。
ルールと自分をいかに同期させるかが、あらゆる利益をえる為のカギとなるのだが、それだけに専心すると弊害も出てくる。
例えば一つは、人間性が下がると言う事
ルールは仮の絶対性を持つものであり、本当の意味で絶対ではない。
それを理解せず本当に絶対視する事で、自分の良心や人間性よりもルールを大事にするようになる。
そうすると「普通宗教」が生まれる。
普通である事が絶対であり、普通でないものには何をしても許されると考える残忍な人間性が育つからだ。
またルールがどう機能しているか看破すれば、それを逆手にとったり裏で操ったりする事も可能になる。
つまりルールを守っている側にも、「ルールを守るための残虐性」が生まれるし、
ルールを管理する側にも「ルールをコントロールし、利益を独占する利己的精神」が生まれる。
例えば格闘技やスポーツだったらルールの為に何をするか、が全てになってしまう。
ルールが無ければ、どう鍛えていいかわからない。
世の中で達人や名人が生まれた時代と言うのはルール無用の時代が多い。
例えば日本では室町から戦国までの動乱の中で、剣術の達人たちが多く生まれた。
この時代には「鍛える」という概念の武術は主流では無かった。
槍も太刀も馬も弓も組討も使わねばならないし、いつ何時寝首を書かれるかわからない。
法律も自分を守ってれない時代である。
この時代にいったいどうやって「鍛える」というのだろうか。
どこに向かって鍛えたらいいのだろうか。
つまり鍛える事が出来るというのは、その自分のいるコミュニティに明確なルールがあり、それを皆が守っている現状がある、と言う事なのである。
ルールと言う仮の絶対性によって社会秩序がまもられるのだが、その弊害もあると言う事である。
それは「生命の躍動」の阻害である。
戦国期の達人たちは「鍛える」事はしていない、全てに対応できる「生命の躍動」を練っていたのである。
だから「鍛える」よりも「練る」という言葉の方が武術修練において主流だった。
「鍛える」よりも「練る」は格が上の概念だった。
つまり鍛えるためにはルールが無ければならないのである。
努力する為にはルールが守られる社会が無ければならないのである。
しかしそこには前述したように、ルールを守るための残虐性やルールを利用しようとする狡猾性を持つ人々が生まれる弊害もあるのである。
今後日本が良い方向に行くにはルールを保持したまま、生命力の躍動も守られる社会にするしかない。
どちらかを捨てれば日本に未来は無いだろう。
その為には「無条件の信頼」が大事である。
無条件に人を信頼する人が多数派でおり、そういう人々が守られる社会になれば日本は必ず発展するだろう。
大事なのは「無条件の信頼」であり、「条件付きの信頼」ではない。
「無条件の信頼」こそが人間に生命の躍動を与えるからだ。
武術の達人は無法地帯のシビアな世界でその「生命の躍動」を練っていた。
無条件の信頼が無ければ生命の躍動は得られない、しかし戦国時代はそんな優しい世界ではなかったはずだ。
つまり「警戒と信頼」という完全に矛盾するものを一つにした先に武術の達人は生まれるのである。
警戒だけしておればいいと思っている現代人の我々は実は逆に脳内お花畑なのである。
故に「鍛」と「錬」は二つセットで「鍛錬」というのである。